昭和43年10月29日    朝の御理解

御理解第91節「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けさせる」



 いよいよ明日は、三井教会初代教会長、荒巻弓次郎先生の35年の式年祭がございます。本当に「もとをとって道を開く者は、あられぬ行もする」とこう言うておられますが、それこそ、大変な難行苦行をして下さって、そして善導寺にあぁして道が開けて、そこで私共、大坪一家も助けて頂くことが出来て、今日があるわけでございます。
 「もとをとって道を開く者は、あられぬ行をするけれども、後々の者は、そういう行をせんでも、みやすうおかげを受けされる」とこう、ですからもとをとって道を開かれたその、道を私共がよく知って、分からせてもろうて、その道を歩かなければみやすうおかげということになってこないですね。
 折角初代があられぬ行をさせて、されながら道を開かれたんです。ですからその道を私共、辿らなかったら、やはり難行苦行であるですね、やはり。この辺のとこを、本当に素直にこう頂いていけばいいのですけれども、そこんところの、道を開いておって下さった道を歩かずに、只その、難儀から開放されたいということだけに焦点をおいて、道を辿ることに気が付かんでおるのですね、お互い。
 そりゃもうご承知のように、初代が本気で取り組まれたという事は、「こりをつますな、こりをつむな。身を慎め」と、といったようなみ教えに本気でお取り組みなられたんですね。それでなら私共も、だからあの、それに本気で取り組ませてもらう。
 ところがこれは実は大変難しいことであって、こりをつませんということやらは、もうこれはいよいよ難しいこと。ですからまぁ、これ私何時も思うんですけれども、こりをつませんということは難しいことでも、こりをつまんという修行は、まぁみやすい。みやすいっていうか、一生懸命精進すれば、出来んことはないなぁ、私共でもと、こう思うんです。
 ね、どんなことがあっても、どんな場合でも、それによって自分が傷付けられたり。そのために自分がこりをつむようなことのないおかげを頂かせてもらうということは、ね、ですからそれを結論いたしますとですね、どのような場合でも、やはりあの神様を信じ、神様の働きを分からせて頂くということなんですけれども。それが段々分かってまいりますとですね、もう全てのことがおかげと分かるのです。ですからおかげでこりをつまんですむのです。
 昨日、福岡からその「いけべ?」先生ていうて、まぁあちらの元「ほしの?」教会の教会長でございます。今書道の先生をしておられます。先生が昨日、夕方から見えられまして、それから、(皆しょうしゅうを受けてといたもう?)使用人の者が集まりまして、ほれでまぁ最終的な、そのまぁ委員会を開かせて頂いたわけでございましたが。
 本当になんというでしょうかね、引っかるといや引っかかる。色んな問題が幾つもあるんですけれども、そのたんびにそれはおかげと私が思うんですね。私昨日の朝、善導寺に出ました。それで、あその打ち合わせにまいりましてから、まぁ何かまだ不行き届きの方も沢山ございますけれども。
 もういよいよ明日は、明後日、(昨日ですかね?)にせまっておるそのお祭りの祭事の方の、いわば神饌。お供え物なんかの手配がどういう風になっておるのか、又なさるつもりであるのか。まぁそれに、応じてこちらも動き、動かねばなりませんから、そのことの打ち合わせに、これはもう何時ものことですから、まぁあの、神饌のことは何時も私がまぁいわば一人で引き受けておかげ頂いておるわけなんです。
 で、そのことを又あの打ち合わせにまいりましたら、今日こっちに「いけべ?」先生が見えるから、またその時電話かけるから、来てくれということでございました。そして、まいりましたら、あの、ちょっと、あらっとこう思ったんですね。
 というのは、御霊様の前に、あのボール箱ば幾つも並べてあるんです。丁度何時もうちからお供えをさせて頂きます時のように、ボール箱ガ幾つも、ははー「いけべ?」先生が見えて、「いけべ?」先生が福岡からお供え買うてみえたなぁ、と私は直感したんです。
 ほれで、入ってから、んー、まぁ色々話も進んで、最後にそのお供え物のことについてお話が出ましたら、なんとその善導寺が北野の先生に頼まれて、昨日お供え物を買いに行っとられるわけです。
 (んが?)そすと、結局私の出る幕がなくなった、て来るわけですね。私はその前の日にも、あちらのお嬢さんが見えましてから、お供え物のことはこうこうじゃと私が、あらかじめ言う、わざわざ私は昨日の朝、あちらにまいりましてから、そのわざわざ打ち合わせに行って、にも関わらずその後にですね、お供え物を買いに行っとられるわけです。
 そして、えー、一通り何もかにもだいたい準備が出来てきておる。ならその私の出る幕がないから、んー、まぁいうならば、まぁカツッと来ると来るところですけれどもね。もうお前んところにはお世話にならん、と言わんばかりのような感じがせんでもなかったんです。
 ところが、あー、それがおかげと私は思うんですね。もう本当に思うですね。ね、だから、神様は他に、他の御用につこうて下さる。と私はその、まぁ思わせて頂いて、ほりゃもうお世話さまでした。あー、(そりゃなら?)私お供え物買いはもういかんでも済みますねというて、まぁあの本当に引っかからんなりに・・・。
 ですからあの、向こうでもやはりこちらが引っかかっておらんという事が、又向こうにも引っかかっていない事を感じさせて頂くのですね、その雰囲気の中から。
 そしたらあの、段々、お祭事のことが、話が出ておりましたが、あの、親先生が、あの、吉備舞の奉納がありますが、吉備舞奉納の後に、あの(けんさ?「献茶」)のおかげを頂いたらどうだろうかという事であった。
 ほんで合楽の豊美さんが、あぁしてお茶の稽古をさせてもらいよるから、あー豊美さんにおかげ頂いてもろうたらどうだろうかて。もう皆が、そりゃよか。もう初めて、あんなにその皆さんの賛成を得てから、おかげを頂きまして。
 もうこういうことなんかでもですね、やはりこちらに引っかかっておるとですね、そういうことに、スムーズなことになってこんのですよね。( ? )それはせんでよかとか何とかというのが、出来てくるんですけれども。まぁおかげ頂いてから、私も(まぁあの人が?)折角あぁして稽古させてもらいよりますから、御用させて頂きますよと。
 という事になりましたので、まぁ御用がそちらの方へ、まぁ回ったわけです。豊美がその、まぁ(けんさ?)の御用を頂くわけ。ほれで今日私共、親子で、えー、まぁその神饌の、それが出来なかったから、まぁお茶の(おじょぶ?)でもこのさえ奉納させて頂こう。
 夕べも色々、あー、そのご都合ですね。夕べお茶の稽古で豊美が行っております。私は善導寺から帰りましたら、まだ帰ってこないという。それで直ぐ、あちらの電話がないから、そりゃ連絡が困ったなぁと言よったら、とよ、愛子のあの通うておった(よさい?)学校の直ぐ近所だというので、そこへ電話かけてから、豊美を呼び出してもろうた。
 それでおかげで、あの直ぐ話て連絡がつきまして、実はこういうわけで、あんたが(けんさ?)の御用を頂くようになったから、(けんさ?)の、(けんさ?)をさせてもらうのには、色んなその約束、(しきさい?)というものが、別にあるに違いはないから、そちらの先生によくあの、お伺いをしてから帰って来てくれということになって、それもスムーズに出来ました。
 ね、というようにその、明日のそのお祭りがどこに引っかかることもなしに、(よぞり?)なくこうスーとこういけるという事ですね。結局これは私がもう真から思うておる事は、こりをつませんということはなかなか難しい。ね、こりをつませないということは、なかなか難しいのですけれども、そのこりをつまんで済むということは、こちらが神様が分かり、信心が分かってくると、どのような場合でもそれをおかげと頂くことが出来る。
 ね、それを、あのおかげと頂けれるという事。私はもとをとって道を開く者は、あられぬ行もさせて頂きながら、ここんところに精進された初代がです、私共に残しておって下さったものはそれである。
 ですから、それを私共が、本気で一生懸命頂こうということになるのですから、なるほどみやすうおかげが受けられるのです。で、色々、あー(?)なんか役割が足りんのですね。特に青年会が、もう全然、その明日いないのです。
 それで、えーなら合楽に履物、下足預かりの御用を受け持ってもらったらどうだろうかと。もうおかげ頂くことじゃありません。責任者は、その岸先生が責任を・・・。
 私は昨日そんな話聞かせて頂きながら、何時もあちらではあの総代さんである岸先生があの履物預かりをされるんですけも、それがもう分からなかったです。意味が。
 もう下駄預かりどん少年少女会でよかと私は思いよったんです。ところが昨日は、私ははーなるほど素晴らしいなぁと思ったことは、「いけべ?」先生も、私も下駄預かりをするって言われるですもん。
 いんやそりゃ私がするっち言うて、あの岸先生が言われる。だから若い人達が二、三人おられれば、私が責任を持ってやるからというて、二人が言われるんです。でもこりゃもう私が一番なれとるから、私がするというて、岸先生が、まぁ責任者になられたわけですけれども。
 まぁ考えてみるとやっぱり、その表玄関の一番、そこのところでですね、信心の出来た人としてお客さんの全てのことについて分かっておる人がやっぱいらにゃ、ご無礼が出来るということですね。
 はーなるほど、そういう行き届いた心が、何時もあの岸先生が下駄預かりされるわけはそこにあったなぁ、これはうちあたりも見習わにゃいかんなぁこう思わせてもらいました。ね、例えば先生方が見えても、(先生、はい?)そのよく、そのうちは乱れるわけなんですね、そういうことになって。
 どこの信者さんやら、どこの幹部の方が来たやら分からん。それを、あの岸先生当たりのように、まぁ善導寺での関係の方全部知っておられる。特に今度は初代の(お知り合い?)の昔のお付き合いの教会の先生方も見えるから、素人じゃやっぱ分からんのです。
 それで、先生が采配をふって下さって、まぁ合楽から4、5の先生の方がおかげを頂いてくれりゃ、おそらくぱったりともいわんごと、玄関だけは出来るだろうとこう思うんです。
 ね、そういう時なんかでも、こちらのやはりお思いの浅いこと、これはまぁ余談ですけれども、まぁ感じさせて頂いたんですけれどもね。もうとにかく、私共がね、こりをつまんで済む信心。それは、初代がもう生命がけで、あられぬ行をしながらここを追求され、ここを体得されたのでございます。
 ですから、私共も本気でならこりをつまんで済む信心を頂くために、やはり神様が分からなければ出来ません。ね、神様の働きを、ね、あれが私に(にくじ?)であぁしよる。ね、(ひにく?)にあぁしよる。そりゃそうかもしれません。けれども、それがこちらには、実をいうたらおかげになるのだと信じることです。
 ね、何時も、もう神饌のことだけは、もう合楽が受け持っておる事が分かっておる。しかも私が、ならそのいうてもあるのに。買えにいけっていうなら、私に言いなさりゃよかところが、(わざわざ?)北野に言うてから、こげん(とりそげなさらんぜん?)
 ほんなら(まぜ?)よかごつしなさりゃよかたい、もうこっちは知らんといったような気持ちもですね、もうちょっと間違うと起こるところ。ね、ですから、こちらも他に御用があるとこう、あぁ今度は他に御用させて下さるんだなぁと。だから、それもおかげであると私はこう、直感させて頂いた。
 ね、ですからその、私の心に引っかからないで済む、それをおかげと頂かせてもらう、それがです、後の話の非常にこのスムーズなおかげにもなってくる。そういう訳で、まぁいよいよ明日にひかえて、んー、今日私共又、今日親子3人で御用に行くことになっております。
 ですが、もうちょっと油断しますともう、善導寺ではもうこりをつまなければならないような事が、実にあまりにも多すぎるぐらいに多いのです。けどもそれを一つ一つ、はーおかげ、はー神様のご都合と、頂かせてもらう信心をですね、いよいよ頂かせてもろうて。ね、いわゆるみやすうおかげを受けさせると仰るのですから、受けさせて下さるそのおかげを受けなければ、馬鹿らしい。
 そういう一つ信心。そこからですね、例えば私共のように、こういうような、みやすうおかげの受けられる道があるのに、わざわざどうして、そのこういうみ教えに本気で取り組まなかっただろうかと後悔されるようにあります。
 ね、折角初代が「道を開く者は」と仰るその道を開かれるのに、そういう修行して下さったんですから、ね、それはそこに道が、を開いてるのですから、その道を私共が歩かせて頂くこと。もうその事だけでも、私はおかげが受けられる。それに段々身に徳を受けて、ね、こりをつませんですむようなおかげが頂けたら、もう本当の体得が受けられると私は思うです。
 このみ教えだけでも、やはりあのおかげ。ね、三井教会にご縁を頂いておる私共が、ここんところの御教えに本気で取り組ませてもらわなきゃならん。
 今度、えー、偲び草に、一般信者の、この短冊が出来ております。それもあの、先生の御歌が短冊にあの、書いてあるわけでございますけれども、ちょっと意味を忘れましたけ、あの歌のもん、あれを忘れたですけども。とにかくあの、甘木の親先生のこりを、あー、「我よしと思う心あだとして?」という、あぁいう内容のもんです。
 それが先生の場合は、その自分が悪いのだと思うてしていきよるとですね、自分の助かりだけではなくて、人も助かるとこう最後に結んでございます。ね、我よしと気持ちで、そのことに当たっていきよるとです、ね、自分の助かりだけではなくて、その相手も助かるとこう。
 ちょっと最後のいきが、その甘木の初代のとは意味が違うて来るわけですね、そういう御歌が、の短冊が偲び草に出来ております。徹底、やはりこりをつまず、こりをつませずというところに焦点をおかれた先生のご信心をね、頂きたい。
 ならそういう意味でまた明日はどうぞ皆さん、丁度昨日、出社関係だけから百名信者が集まるようになっとります。合楽から50名、「星野?」から20名、鳥栖から20名、北野から10名。丁度出社からだけ百名おかげを頂く。
 まぁ50名(いわゆる?)そういう意味で、(あてして?)ございますから、まだ30名あまりしか出来ておりません。ですからどうぞ、あの誘い合わしてから、50名だけはぜひおかげを頂きたいと思いますから。よろしゅうお願いいたします。

梶原 佳行